さて、松山といえば、やっぱり道後温泉にもぜひ行っておかなければなるまい。
場所は大街道から伊予鉄道の路面電車に乗って、道後温泉まで約10分の道のりだ。
路面電車も何系統かあるようだが、昭和の面影を残すかなり旧式の車両が現役で走っている。料金は一律150円で、お釣りは出ないので事前の両替が必須である。
その黄色の車体が松山の街並みに自然に溶け込んでいて、何とも風情がある。
1両だけの電車に揺られていると、何だか「三丁目の夕日」の時代に戻ったような気分になってくる。ここは東京と違って、時間がゆっくりと流れているようだ。
しばらくすると道後温泉駅に到着、そこから小さな商店街を抜けていくと、写真で見慣れた建物が見えてくる。
道後温泉は明治27年竣工の木造三層楼の共同浴場で、威厳のある佇まいは往時のまま1994年に国の重要文化財に指定された。
今回お湯に入る時間はなかったが、その外観の渋さはちょっと半端ないものがある。
2階の休憩部屋の窓は開け放たれて全て簾(すだれ)がかけられており、天井には昔の大きな扇風機がゆっくり回っているのが見える。ここにはクーラーなんて野暮な設備は無いようである。
十年の汗を道後の温泉に洗へ
子規(明治29年)
ふと気が付くとすでに17時前で、結構いい時間になってしまった。
しかしこの旅でどうしてももう一か所行きたい処がある。
『子規記念博物館』である。
正岡子規という作家も、これまで殆ど作品を読んだ記憶が無いのだけれども、時折写真で見る、あの一種独特な風貌というか、まぁぶっちゃけ言うと変な顔が何か強烈に印象に残る感覚がずっとあった。
明治を代表する俳人・文学者であること、病弱で、東京根岸の子規庵で34歳の若さで亡くなったこと、日本に野球を普及させた功労者で野球殿堂入りしていること、「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という有名な句を詠んだ人、それくらいしか知識が無かったのであるが、なぜか妙に心に引っ掛かる作家なのである。
子規晩年の3年間は脊椎カリエスという難病に侵され、痛みで座ることもままならず、ほぼ寝たきりで創作活動を行い、高浜虚子ら後進の指導をし続けた。
脊椎カリエスの悪化によって、臀部や背中に穴が開き、そこから膿が流れ出て、激痛で号泣しながらも、モルヒネを投与して最期の時まで口述で俳句を詠み続けた。
明治35年、絶えず自殺を考えるほどの激痛と闘い続けた子規の最期を看取った母親の八重が、寝床で冷たくなっていくわが子の手を握りながら、
「のぼさん(幼名)、もう一度痛いと言うとみおうせ」
と涙を流したという話は有名である。
(しまなみ海道 夏紀行 ④に続く。。。)