松山城は海抜百三十二メートルの勝山山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を置く連郭式平山城で、創設者は関ヶ原の合戦で徳川家康に従軍し、戦功を認められた加藤嘉明である。
工事着工から25年の1627年に一応の完成をみるが、1784年に落雷にて天守が焼失、その後12代藩主松平勝善によって1854年に復興された。
これが現在の天守で、姫路城と並ぶ典型的な連立式天守を持ち、慶長期の様式を引き継ぐ我が国最後の完全な城郭建築と言われている
最初の大手門から本丸を通り、本壇へ進んで行く間に気が付いたのは、とにかく見上げた時の建物の景観が素晴らしく美しい。
天守は小振りで、しかもその内部の階段は傾斜60度はあろうかという急勾配で、かなり注意して昇り降りしなければならない。
面白かったのは、天守に展示してある落書きで、江戸時代の大工さんが侍の似顔絵を下見板に描いたものが残存している。
これが現代の漫画みたいなタッチで、表情になんとも味がある。
松山や 秋より高き天守閣
子規(明治24年)
城下を見下ろす絶景と、21棟の重要文化財を持つ城郭は、初めて訪れたにも拘わらず、なぜか妙に懐かしい感覚を覚える場所であった。
帰り途は麓までリフトに乗って下っていると途中で夕立がきた。
もちろん雨宿りするところも無く傘も持っていないので、5分ほど無抵抗に雨に打たれながら降りてきたが、かなり蒸し暑かったせいか、かえって心地良く感じた。
麓に着き、ロープウェイ街を引き返すと、間もなく萬翠荘の入口に差し掛かる。
萬翠荘は大正11年、旧松山藩主の子孫・久松定謨伯爵が別邸として建てたフランス・ルネサンス様式の洋館で、重要文化財である。
美しい外観とともに、ロココ調のインテリアやステンドグラスが大正浪漫を伝えている。
のちの昭和天皇が宿泊された際、朝食を召し上がったテーブルが展示してあったので座ってみた。
ちょっと高貴な人になった感覚に浸ってみようと思ったが、残念ながら大した感慨は無かったけど。。。
その萬翠荘と同じ敷地内に愚陀佛庵の跡地がある。
愚陀佛庵とは、夏目漱石が英語教師として松山中学校に赴任した時に下宿していた離れであり、親友だった正岡子規が療養のため居候し、1階に子規、2階に漱石が住み、52日間を共に過ごして俳句作りに没頭したという旧家である。
漱石は、ここで過ごした松山での教師体験をもとに、小説「坊ちゃん」を執筆したらしい
そのあと丘を少し下って、坂の上の雲ミュージアムへ移動。
言うまでもなく、「坂の上の雲」は作家の司馬遼太郎が40代のほぼ全てを費やして完成させた超大作で、1968年から1296回にわたって産経新聞に掲載された新聞連載小説である。
松山出身の正岡子規、秋山好古、真之の兄弟を中心に多くの人物を登場させながら近代国家を目指す明治の日本が描かれている。
またミュージアムの建築設計は安藤忠雄氏で、回廊式庭園を楽しむように上がっていく展示室の構造は表参道ヒルズと同じだ。
明治の近代国家形成のなかで、義務教育制度が生まれ、それまでの生まれた時の身分を一生超えられない旧制度から、勉学によって立身出世が実現できる新しい社会へ変わろうとする時代に生きた人々の、躍動した息吹が感じられる展示内容だった。
「この夏休みに『坂の上の雲』、全部きちんと読んでみよう。」 改めてそう思った。
(しまなみ海道 夏紀行 ③に続く。。。)