連日の記録的猛暑のさなか、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録され、地元住民の悲願達成の喜びに沸く長崎を訪れた。
ただし長崎を訪れた理由はべつに世界遺産に登録されたからという訳ではなく、以前から五島列島に興味があって訪れてみたかったのと、高校時代に修学旅行で行った経験のある長崎を、当時を懐古しつつもう一度巡ってみるのもいいなという単純な懐旧の念からであった。
というわけで7月の中旬に早めの夏休みを取り、5泊6日の日程で意気揚々と出発した。
長崎市内に2泊、五島列島の福江島に1泊、そして佐世保に2泊の予定で飛行機と五島列島へ渡る高速船と宿のみを手配した以外は、全く何も決めずにその時々の思いつきで行動する気儘な一人旅だ。
朝8時過ぎの羽田発長崎行の全日空機に乗り込み、約2時間のフライトの後長崎空港からリムジンバスで長崎駅へ向かった。
バスから降り立った正午前の長崎駅周辺は驚異的に暑かった。
数日前から始まった記録的な猛暑は日本全国を灼熱地獄に陥れていたが、ここ長崎も例外ではなく、炎天下のなか歩くとたちまち顔が紅潮し頭がボーっとしてくるような感じがする。
なるほど確かにこれはかつて経験したことのない危険な暑さである。
うろうろ探検するには暑すぎるし、とにかく勝手がわからない土地なので無難に駅ビルの中で昼食を取ることにする。
飲食店の入るフロアに上がると回転すしの看板が見えたので早速入ることにした。
店内は結構広くゆったりしており、まだ昼前なのでそれほど混んではいない。
メニューには五島列島で獲れる地物の魚が並び、たいそう旨そうである。
とりあえず冷酒を頼んで乾いた喉を潤したのち、回っている皿を選び始めた。
あまり期待はしていなかったが、食べてみるとこれが想像していた以上に新鮮で味もよく、旅のスタート早々食べ過ぎてしまった。
重苦しくなったお腹を持て余しながら、駅前の宿泊予定のホテルへ移動し、チェックインの時間までフロントで荷物を預かってもらい、小一時間ほど時間をつぶしたのち部屋に入った。
案内されたツインの部屋はかなりゆったりと広く、清潔感のある瀟洒な部屋である。
「さて、長崎1日目。まずどこへ行こうか」
小奇麗なグリーンのソファに腰を下ろし、先ほど近くのコンビニで仕入れておいた缶ビールを乾いた喉に流し込んだ。
ホテルの玄関を出ると客待ちのタクシー1台が待機している。
刺すような陽光を避けるようにすかさず乗り込むと、運転手に行先を告げた。
「原爆資料館までお願いします」
「はい、資料館ね」
運転手の元気一杯な返事とともに黄色い車体は滑るように走り出した。
今から40年近く前に、通っていた兵庫県の県立高校の修学旅行で長崎を訪れた。
当時の記憶は今や欠片も残っていないけれど、唯一脳裏から消えない思い出がある。
その時も長崎修学旅行のお決まりのコースとして「原爆資料館」に立ち寄り、クラスメートたちと一緒に展示室を巡っていた。
その頃の自分はまだまだ幼稚で思慮浅く、空気を読むということもできなかった。
その時は、目の前に展示されている、この地で起きた紛れもない悲劇を認識し、痛ましい事実を共有するということより、友人とおしゃべりすることの方が優先されていた。
明らかに私は退屈していたのだ。
そしてかなり大きな声でとんでもない不謹慎な一言を発してしまったのである。
「こんなところ、おもろないなぁ」
次の瞬間、私のそばにいた、恐らく資料館のガイド役であろう年輩のご婦人が返答した。
「そりゃぁ、あなたたちにとっては面白くも何ともないだろうねぇ」
それは心の奥底から絞り出すようなとても悲しい響きを湛えた一言だった。
私をあからさまに非難するというのではなく、言いようのない空しさに絶望しているような響きであった。
その言葉を聞いた時、私の心臓は雷に打たれたように頻拍し、激しい後悔の念が脳裏を走った。
「あぁ、自分はこんな所で何という不謹慎なことを言ってしまったのか。。。」
あの時の身悶えるほど恥ずかしく情けない気持ちを今も鮮明に思い出すことがある。
だからどうしてももう一度「原爆資料館」に行かなければならなかった。
あの時の自分の言動の贖罪ということはもちろんだが、73年前に長崎で起こった悲惨な事実を自分の中できちんと再認識しておきたかった。
その積年の思いが最初に「原爆資料館」に足を向かわせたのだろうと思う。
1時間ほどの見学のあと、資料館を出てなだらかな坂道を下っていくと、左側に「爆心地公園」が見えてくる。
原爆落下中心碑を見上げながら、この上空500mでファットマンが炸裂したのかと思うと何ともやるせない心持ちになるのを禁じ得なかった。
ちなみに爆心地から半径500m以内にいた人々は、屋外屋内にかかわらずほぼ全員が即死だったそうである。
さらに北に歩いていくと平和公園に出た。
澄み切った夏空の下に広い空地が広がっている。
その空地を高さ10mに及ばんとする青銅色の「平和祈念像」が見下ろしている。
そしてその直下には直径18mの「平和の泉」が清冽で豊かな水を湛えている。
蒼穹と広場を囲う新緑の木々と堂々とそびえる祈念像と豊かにたゆたう泉、それ以外には何もない。
人っ子一人いない、寂寞とした夏の昼下がりの公園。
公園の一角にある原爆殉難者の碑に掲示してある「原爆とも知らず長崎の市民はその日、七万四千人が黒焦白骨と成りました」という文言が底知れない悲哀の情を誘う。
そういえばここに来るまでの長崎名物の坂の多い街並みも妙に静かだった。
もちろん人や車の往来はあるけれど、東京のような「喧噪」というものが無いのだ。
これまで幕府の禁教令による迫害や無慈悲な原爆投下という悲劇にさらされ、そんな長い歴史のなかで耐え忍んできた長崎の人々の無念が街のそこここに感じられるような気がする。
何があっても狼狽えず、唇を噛んで静かに耐えている強靭さがある街なのだ。
そんな思いがふと頭の中をよぎった。
刺すような強烈な西日が全身を包んでいる。
あの夏の日、長崎の多くの人々を一瞬で焼き尽くした熱線のように、私を焦がそうとでもしているのか、
じりじりと肌が焼ける感触がして、全身から汗が滝のように吹き出してくる。
「自分は今、灼熱のこの場所から大きなパワーを受け取っているのかもしれない」
私は一種異様な感慨に浸りながら、時間を忘れてその場に立ちすくんでいた。