朝の通勤ラッシュの車内で、鋭い視線が交錯している。
駅に停車するたびに雪崩れ込んでくる人々が車内にいる人たちにぶつかり、息苦しい空気の中に緊張が走る。
「こら、押すなよ」
「うるせぇ、仕方ないだろ」
お互いが目線と表情でそう主張し合っている。
走行中の揺れる車内で、若い学生風の男の担いでいるリュックが、後ろに立っている中年サラリーマン風の男の背中をまるで挑発するかのように何度も突く。
サラリーマンが振り返り、リュックの男に憤怒に満ちた視線を投げる。。。
「この野郎、混んでいるんだからリュックを下ろせ!」
片腕でリュックを忌々しげに押し返す動作が、そう言っている。
一方のリュック男は、一心不乱にスマホゲームに興じている。
自分の担いでいるリュックが他の人に当たり、極めて不快な思いをさせていることなど、これっぽっちも気付く様子がない。
いや、気づかないふりをしているだけかもしれない。
「満員電車内では荷物はできるだけ下におろして、他の人の迷惑にならないようにしましょう」という至極あたりまえのマナーを平然と}無視している。
いや、彼はそんなマナーがあること自体を端っから知らないのかもしれない。
そして私は、こういう人間の無神経さが引き起こすバトルを見るのが嫌いである。
私の心の中にあらゆる心配がよぎるからだ。
この後サラリーマンがブチ切れてリュック男に注意をし、言い争いが始まるのではないか。
そしてそのうちに両者とも激高して、殴り合いになるかも。
いや、さらにエスカレートして、リュック男が懐からナイフを取り出し、サラリーマンをブスリと刺しちゃうかも。
そしてついにはこの男は錯乱し始め、制止しようとした善良な乗客にも刃物を向けるかもしれない。。。
そして車内は血まみれの惨状と化したりして。。。
な~んて私の想像は無限に膨らんでくる。
そしてどんどん不安になってきて、その場に居たたまれない気分に陥るのである。
「二人ともキレるなよ。お願いだから俺が降りるまでコラえてくれよ」
そう願わずにはいられなくなる。
もうこうなったらもう、Kindleで読んでいた小説の内容も全く頭に入ってこない。
私の頭の中は数々の妄想で埋め尽くされるのである。
するとそんな私の心配をよそに、リュック男は次の駅でスマホの画面を眺めたまま悠々と下車していった。
私は内心ほっとするとともに、心のどこかでリュック男を羨ましく思った。
俺もあれくらい鈍感で図太かったら、生きるのもかなり楽だろうなと思う。
いつも他人の顔色に敏感であるということは、実はかなり不幸なことなのではないか?
余計な心配や取り越し苦労ばかりが多くなり、精神的にヘトヘトになってしまう気がする。
終いには、いろんなことに気を配るという行為そのものに疲れて果ててしまうのかもしれない。
そしてその果てが「精神を病む」いう結果になってしまうのか?
いやいや、しかし少なくとも私は疲れ果てるまで気を使い続けることができる人間ではない。
何故なら、そこまでに至る遥か手前で、「気を使うことに飽きてしまう」からだ。
考えてみれば、私はこれまで何事も深く思い詰めるということが無かったし、決定的に絶望するということもなかった。
なんだか途中でめんどくさくなってしまうのだ。
それは自分の精神の健康を守るために、無意識に行われる心の働きなのかもしれない。
人間には、
「生まれつき空気が読めない一貫して鈍感なタイプ」と
「非常に敏感だが、気遣いが飽和点に達した時に、鈍感に変貌するタイプ」
の二通りのパターンがあるのかなぁ。
どちらが良いんだろう?
どちらも一長一短あるような気がする。
私は早朝の車中でそんなことを考えながら、自分の性分についてつくづく考え込んでしまうのであった。