史上初めて月面を歩いた宇宙飛行士ニール・アームストロングを中心に、1961年から1969年にかけてのNASAのミッションが実話に基づいて描かれている『ファースト・マン』(原題:First Man)。
彼が残した「That’s one small step for (a) man, one giant leap for mankind(一人の男にとっては小さな一歩だが、人類にとっては巨大な飛躍だ)」という名言は極めて有名である。
監督はデイミアン・チャゼル、脚本はジョシュ・シンガーで、ジェームズ・R・ハンセン(英語版)によるニール・アームストロングの伝記『ファーストマン: ニール・アームストロングの人生(英語版)』を原作としている。
ライアン・ゴズリングがニール・アームストロングを演じ、他にクレア・フォイ、ジェイソン・クラーク、カイル・チャンドラーらが出演している。
それほど派手に前宣伝された作品でもなく、作品の雰囲気も、主人公アームストロングの寡黙で自己表現が上手くないキャラクターを強調しているせいか地味めである。
上映時間も2時間半と少し長めで、正直、果たして最後まで居眠りせずに観れるか自信がなかった。
しかしそんな心配は全くの杞憂に終わったのである。
この作品の魅力を言い表すためのキーワードは「究極の対比」であると思う。
一つ目の対比は「閉塞感」と「広大さ」である。
宇宙飛行士たちが乗り込む宇宙船のその狭さは驚くばかりである。
それは、閉所恐怖症の人間が見たら、気絶せんばかりの息苦しい閉塞感を感じる。
よくもあんな中で何時間もの飛行に耐えられるものだと思う。
そして、ひとたび宇宙船が成層圏を飛び出すと眼前に拡がる広大な宇宙。
ただただ無限にだだっ広い黒い空間。
あんなところに一人で放り出されたらと想像するだけで襲われる圧倒的な孤独感。
全く対極の感覚を観るものに抱かせる。
そして二つ目は「音の対比」。
宇宙船の中で響きわたるジェット燃料噴射の音、計器の警告音など、不快なほどの轟音と震動、そしてその一方、船外には無限に拡がる全く音のない宇宙空間。
船内の大音量の騒然さと宇宙空間の重苦しいほどの不気味な静寂との対比が描かれている。
観客はこれらの対照的な環境に交互に放り込まれる。
しかも徹底してそこにいる宇宙飛行士自身の目線で描かれているため、いつの間にかその場に自分がいるような深い没入感に浸ることになる。
月面着陸という人類史上初の大イベント達成のために、当時の最先端技術が注ぎ込まれたであろう宇宙船のコックピットの計器が、液晶
表示ではなく、何とアナログのカウンターであったという発見をした時の驚き。
私は思わず、一昔前の自動車についていたアナログ式のドメーターを想い出した。
確かに、そうなのである。
この作品の予告編のコピーにもあったが、これは紛れもなく「携帯電話もまだ無かった時代」の出来事なのである。
今の時代から考えて極端に表現すると、まるで「ブリキのおもちゃのような乗り物で月面を目指す」ようなとんでもなく無謀な決死の
ミッションだったのかもしれない。
これも一種「究極の対比」として描かれているのではないかと思う。
恐らく当時の宇宙飛行士が高い確率で死を覚悟していたことは間違いない。
事実、NASAの宇宙開発計画では、飛行士だけではなく、整備士や技術者などの多くの人命が失われている。
当時の宇宙計画においては、アメリカはソ連に圧倒的にリードされていた。
その状況のなかで、国家の威信を賭けたプロジェクトに命を懸けて挑んだ宇宙飛行士たちを想うと、思わず戦時中に若くして散っていった特攻隊員の悲壮な姿を重ね合わせてしまう。
この作品は決して「アメリカの宇宙開発技術のすごさ」や「宇宙や地球や月の神秘さ、美しさ」を描こうとしているのではない。
人間を月に送ることが本当に宇宙開発に必須だったのかもよくわからない。
しかし、この作品を観るものはただ、生身の人間である宇宙飛行士たちが、国家の威信を背負いながら未開の宇宙空間に淡々と挑む、その一種諦念を内包した潔い覚悟に、真の人間の強さを共感するのである。
彼らがいなければ、何も始まらなかった。
「宇宙飛行士」という職業の人間を描いた『ファースト・マン』、観るべき作品である。