Categories: エッセイ

親友とは何だろう?

私は小学校の2年生から中学の3年まで、兵庫県の伊丹市というところに住んでいた。

中学校は昭和45年に設立され、武庫川水系の支流で市内を流れる天王寺川という二級河川のほとりに建つ「天王寺川中学校」に通っていた。

当時はヤンキーと呼ばれた不良学生が多く、先生に暴行したり、近くの高校に殴り込みをかけるような札付きの輩がいたりして、相対的に学校の評判はよろしくなかったと記憶している。

そんな中学校にひょろっとした軟弱タイプの私が入学することになり、「不良に絡まれたらどうしよう」とビビっていたところ、思いがけずすぐに仲間ができた。

それが「川口くん」である。

当時私は教育熱心な母親からのご下命で、「H学園」という進学塾に通わされていた。

そのころ「H学園」から、東大合格率の高さで有名な神戸の「灘高」や「甲陽高」といった関西の進学校への合格者が多数出て、「H学園」が一躍地元で有名になりはじめたころで、私は家のある伊丹市から、そのH学園の発祥の地である兵庫県尼崎市にある尼崎教室へ通っていた。

そのうち阪急電車の伊丹駅の駅前にも新しい教室ができて、そこに通っていたのが川口くんであった。

教室は違えど同じ塾に通っていることがわかった二人は、すぐに仲良くなった。

そして私が数か月後に尼崎教室から伊丹教室に籍を移してもらうまで、二人は同じ塾の違う教室に通っていたのだが、これが思わぬ不正に手を染める原因になった。

塾では各科目のテストが定期的に行われていたのであるが、教室によって実施日がずれるため、たとえば今週伊丹教室で行われたテスト内容が、次の週には尼崎教室で出題されているという事実を我々二人は発見してしまったのである。

そのため、事前に二人でそれぞれの教室の授業の進捗度合を確認し、理科の科目で先週伊丹教室で出された問題が今週尼崎教室で出されると踏んだ私は、すでにそのテストを受けた川口くんから答案用紙をもらい、その回答をあらかじめ覚えてテストに臨んだ。

極めて理科が不得意だった私は、全く勉強することなくそこそこの点数を取るという作戦だった。

テストの点数はすべて公開されるので、あまりに低い得点だと教室内で晒し者になってしまうのである。

私はそうなることを恐れ、何としても避けたいと思った。

ただ私が極めてアホだったのは、適当に加減をして、それらしい答案をつくればいいものを、微妙なさじ加減にまで頭が廻らず、何も考えずに90点くらいの点数を取ってしまったのである。

もちろんかなり難解なテストであるから、教室でそんな高得点を取ったものは誰ひとりいなかった。

当時H学園一の秀才と呼ばれ、すべての科目で敵なしだったT君ですら80点に届くかどうかの点数だったので、私の点数は教室内でちょっとした騒ぎになってしまった。

「すごいねー」と能天気に感嘆してくれるヤツもいたが、塾の講師の目には明らかに「あいつがこのテストで、こんな点数を取れるわけはない」という疑惑の色が浮かんでいた。

結局この件に関しては、それ以上突っ込んだ詮索をされることはなかったが、それ以降、違う教室で同じテスト問題が出されることはなくなったので、塾側には我々の不正はバレバレだったのだろう。

まあ、しばらくして私も川口くんと同じ伊丹教室に移籍したので、どのみちもう同じ手は使えなかったのではあるが。。。

「あぶなかったなぁ、こんなズルしてることがうちのオカンにバレたら、メチャメチャ怒られるとこやった」

私は川口くんと塾の帰り道、駅の高架下にあったケンタッキーでチキンを頬張りながら、お互いの無事を喜び合った。

川口くんと中学校では同じクラスであったかどうかは記憶が定かではないのだが、毎日一緒に下校したことは覚えている。

校門を出ると両側が田圃に囲まれた一本の道がまっすぐ伸びており、校門を出てすぐのその道沿いに一軒のパン屋があった。

食べ盛りの二人は、学校が終わるとそのパン屋に立ち寄り、サンドイッチやお菓子を買って頬張りながら帰路についた。

世の中に「塩バターラーメン」なる食べ物があることも川口くんから教わった。

それまではラーメンといえば醤油味しか知らなかった私は、スーパーのジャスコの食堂フロアのラーメン屋でそのコクのある美味さに驚嘆した。

スープの上でゆっくり溶けていくバターの風味がクセになり、塾の帰りにしょっちゅう二人で食べていたような気がする。

この時代に覚えたケンタッキーフライドチキンと塩バターラーメンは今でも大好物であるし、たまに口にするとこの時代のことを懐かしく想い出す。

川口くんは運動神経もすこぶる良く、この点でも私とは対照的だった。

私は生まれつきドンくさいタイプで、しかも自意識過剰の気質であったため、人前では

いつも緊張のあまり動きがぎこちなくなってしまう。

体育の授業でサッカーのときなど、川口くんの華麗なドリブルに翻弄され、私は全くボールに触れなかったが、多分私のその姿は傍から見ると甚だカッコ悪いものだったろう。

その圧倒的な能力格差や性格格差を妬んでいたのかどうかは定かでないが、あんまり私がしつこく川口くんばかりをマークしに行くものだから、クラスメートからは「おまえは相手が川口だといやにムキになるなぁ」と不思議がられた。

そんな時も川口くんは怒るそぶりもみせず、いつもやさしい目をして笑っていた。

ある時、親のおつかいのため二人で郵便局に行ったとき、泥棒呼ばわりされたことがあった。

相手は性格の悪さがそのまま顔に出ているようなおばさんだったが、「自分の通帳と印鑑が無くなった。あんたたちが盗んだんだろう?」と唐突に面罵された。

われわれは「知らない」と潔白を主張し続けたが、相手はものすごい剣幕で迫ってくる。

しまいには郵便局の職員の前で、「盗んでないと言い張るなら、あんたたちのカバンの中身を全部出しなさい」と要求してきた。

当然何もやましいことをしていない我々は素直にカバンの中身を全部出して見せたが、それでも「一体どこに隠したのか」と言って引き下がる素振りがない。

そうこうしているうちに、郵便局内のカウンターの隅っこで通帳と印鑑は発見された。

単にそのおばさんが自分で一時的に置いた場所を忘れていただけなのである。

それを見つけたとき、そのおばさんは「あ~、よかった~」とつぶやき、そして何と我々に一言の謝罪もすることなく、そそくさと帰って行った。

呆然と見つめる我々二人の背後で、局の職員たちの「ひどいわねぇ」という嘆息の言葉がむなしく響いた。

僕と川口くんは疑われたことに対する怒りという感情よりも、一件落着してほっとしたという気持ちでお互いに顔を見合わせ笑った。

「とんだ災難だったね」という感じだった。

しかしその日の夜、その事件を川口くんから伝え聞いた川口くんのお母さんは、翌日郵便局に怒鳴り込んだとあとから聞いた。

我々二人を犯人扱いしたおばさんがどこの誰かということを局員に問いただし、自分の息子をすぐに助けてくれなかったことについて局員を激しく叱責したらしい。

普段から川口君のお母さんのキャラは屈強な男にも負けないと思えるほどの強烈なものがあったから、郵便局の職員もさぞ怖かっただろう。

そのうち私は家の都合で県内の他の市へ引っ越しすることが決まり、中学3年間の短い付き合いのみで川口くんとはお別れになってしまった。

最後にどんな言葉を交わしたか失念してしまったが、それ以降再び会うことはなかった。

後年、私が就職して何年か経った頃、突然川口くんが私の実家に訪ねてきたことがあった。

その時私は既に実家を出て独り暮らしをしていたため会えなかったのであるが、私の母に自らの近況を話してくれたらしい。

我々のために郵便局に怒鳴り込んでくれた川口くんのお母さんは、すでにガンで亡くなったと彼はその時母に話してくれた。

「川口くん、中学時代と変わらず、明るく元気そうやった。あんたに会いたいと言ってたよ」と母は私に言った。

私の母も、自分の息子と気が合った川口くんに再会できたことを喜んでいるようだった。

その後も私は会社生活に忙殺されて、長い間彼のことは記憶のかなたに消えていた。

そしてもうじき還暦を迎えようという歳になって、なぜか強烈にあの懐かしい日々の記憶が甦ってきた。

川口くんと過ごしたあの濃密な中学の3年間を眩しい気持ちで思い出す。

川口くん、元気ですか?

ぶっちゃけ、まだ生きてますか?

お母さんが若くしてガンで亡くなっているので、もしかしたら川口くんもその遺伝を受け継いで、病魔に倒れてしまったのかもしれないと思ったりもします。

私はしぶとく生きてます。

元気なら、ぜひ再会したいね。

川口くんは私の人生において、不浄なものが何一つ介在しない、純粋な友だちでした。

その存在の唯一無二の貴重さが理解できる歳になった今、強く思います。

「君に会いたいなぁ」と。

 

だんくろー

ごくごくフツーの会社員。 仕事はほどほどに、Sax演奏、一人旅、飲み歩き、歌舞伎鑑賞、読書をこよなく愛す。 老後は「旅をするように生きる自由人」になるのが夢。

Share
Published by
だんくろー